20190404

「百年経ったら帰ってきてね」っていうのはですね、寺山修司の『箱舟』に出てくる「百年経ったら帰っておいで 百年経ったらその意味わかる」というセリフからとったものなんですよね。

 僕、寺山修司けっこう好きなんですよ。といっても彼の仕事は膨大かつ広範囲かつ前衛的かつ先鋭的だったのでなかなか言及しづらいんですが。

 僕は彼の俳句や短歌(「天井桟敷」が有名だから演劇や映画の人のイメージ強いんですが寺山修司は高校生のころから俳句や短歌を作っていて彼の文学的ルーツはむしろこっちのほうが色濃いんですよ)が大好きなんです。もうね、盗作疑惑が出るくらいオマージュや本歌取りしてるんですよ。そしてその寺山の短歌が実に“いい感じ”なんですよ。

 塚本邦雄っていうこれまた前衛短歌の巨匠みたいな人が寺山修司の短歌を激賞し、その盗作疑惑にも弁明してあげるくらいぞっこんなんですよ。

 寺山修司の短歌で一番有名な

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 っていう短歌も

一本のマッチをすれば湖は霧

という富沢赤黄男の俳句がもとになってて、読んでみたらわかる通り寺山の短歌、下の七七ですげえいい感じに仕上がってるでしょ。短歌と俳句の違いは個人的に物語性・虚構性の濃淡だと思うんですけど、富沢の静謐な句がかなりドラマチックに読み替えられてる。

 そして寺山修司は自分が作った俳句や短歌でさえなんども作り変えているんだよね。反復されるモチーフ、表現。あー、反復されるsomething大好き、愛してる。

 蓮沼執太さんが同じ曲で違う歌詞を歌ったりしてるのも同じような気がする。

 異なることを同じ言葉で語ること。同じことを異なる言葉で語ること。(もちろん、同じことを同じ言葉で語ること・異なることを異なる言葉で語ることというのも存在するしむしろそっちのほうが現象としては多い)

 filmarksっていう映画鑑賞記録アプリがあって、観た日時とその時の作品に対するレーティングが確認できるんだけど、同じ作品を久しぶりに見てそれを確認すると過去の自分と現在の自分がいかに違っているかってのがありありと分かる。つまり、あんなに感動していたのに不感症か?ってぐらい何も感じない。途中で寝るくらいつまらなかった作品に心を動かされるってのが当たり前に存在する。

 これって作品はなにも変わってないから自分が変わった証拠なんだけど別にどっちが良いとか悪いじゃなくてただただ変化が存在したっていうのを自分で確認できるってのがすごく精神的にいいと思う。一種の治療というか、祈りだよね。それは呪いを解くこともある。

 うわー話がかなり脱線してる。いや、線路引いてないから脱線もなにもないけれども。これはなに?ブログ?日記?これはちゃんとした文章の体を保っていますか?あなたがたはこれを読むことができますか?

 今思い出したから書いとくけど、究極的には物事に良いも悪いもないよ。そこには現代的な価値観の妥当性というのがあるだけです。そのアップデートについていくか行かないかを選びなさい、人類よ。